museum of Japanese immigrants
アミーゴ🌵!世界一周中のはやと㍊です。
気温は25℃、お天気は晴れ
通貨→1$🇺🇸→109¥🇯🇵→3.5real🇧🇷
世の中にはスーパー幸運な人がいるもんだなぁ。俺が会えなかったムヒカに出会えた人がいて、話もしてた笑笑。俺が行った時なんてコロンビアに行っちゃった日だったし笑
まだまだ自分、若造ですな( ゚∀゚ )ハァーハッハッ!!
今度その人にあったら沢山の運をダイソン並みにゴゥゴゥ吸い取ってやろーっと。
素直におめでとうです( ´∀`)
昨日の続き。
入り口かと思う大きな門は閉まってるけどその横にあるビルの入り口を通過して入る。ややこしいぞw
入場料は12realだったかな。安かったと思う。受付で7.8.9階に展示物があるけど8階は閉鎖中ですとのこと。
中に入ると説明書きが日本語、英語、ブラジル語だった。日本語の説明書きは久しぶりに見る。とゆーか日本でしか見ない。
1895年、日拍修好通商航海条約ってものができてそこから日本人が移民するようになった。
元々ヨーロッパ人によって支配されてたブラジル。当時ブラジルのコーヒー農園の人手不足(黒人奴隷あかんやろー運動が盛んになったから)と日本人の日清戦争後の人口増加と仕事がない問題がここでうまく解消したもよう。日露戦争が拍車をかけた型になる。
1908年頃に第1期の移民がブラジルへ向かう。
日本からブラジルへの初の移民を送り届けた船はロシア艦隊の病院船。勝ったからゲットしたやつ。てかそれで良く来たね。
最初来た時は行儀のいい人達って報じられたみたい。
今でも日本人といえば行儀が良いって外国人には刷り込まれてるよね。守っていこうこの心。
1930~34年が1番盛んだった。ルートは主に2つ。
①太平洋、パナマ運河経由で45日。
大冒険だな。すごい。てゆーか当時の船で1ヶ月半なら今なら1ヶ月くらいでこれるってことか。
船内では毎日余興が行われ、学校なんかも開かれてたんだって。
着いた当初はドキドキと不安でいっぱいだった移民の方達。そりゃそーだ、知らない土地に行くなんて今でもそういう気持ちになるのに100年前なんて恐怖でしかないだろw
仕事はコーヒー農園で草取りがメイン。それから種をまき耕し水をやり…マラリア、アメーバ赤痢とかにかかってきつかったみたい。
もちろん完全に奴隷として扱われてるよね、しかもほぼ0からやってるようなもんだなこりゃ。
パラグアイのコルメナは何もないところにいきなり送り込まれたからその違いはあるよね。
どっちが大変とかじゃないけどコルメナの人たちが俺らの方が苦労した!って言うのは分かるかも。
徐々に慣れてって野菜とか果物の育て方、作り方とかを改良して自分達のコミュニティを作った。そして現地の人と農業をして今のブラジル農業があるのだと。だから日本人がブラジルの農業の土台を作ったと言っても過言ではない。
え、すごい┣¨━━━━(´゚Д゚`)━━━━ン
昔の辞書。作った人凄すぎ。何時間かかったんだろ…
色んなものが展示されてたけどやっぱ心にグッと来たのはこの写真かな。
テープが切れる…
出航する時のワンシーンなんだけどこの言葉からはなんとも切ないとゆーか儚い哀愁が漂う。不安、期待、別れ…様々な言葉がこの一言に集約されてるなぁ。
帰る時に受付のおじさんと話す。「オマエは良く話す。他の日本人とは違うな。」とか「オマエみたいに知ろうと世界に出てるのはするのは素晴らしいよ」「オマエは知ってると思うけどサンパウロは危ないよ」とたまにオッ😯っと思いながらも楽しい時間を過ごせた。
てゆーかおれ良く話す様になったんかwww
YOLO!!